齋藤 孝(さいとう・たかし)
1960年、静岡生まれ。明治大学文学部教授。東京大学法学部卒業。東京大学大学院教育学研究科博士課程等を経て現職。専門は教育学、身体論、コミュニケーション論。2001年に上梓した『声に出して読みたい日本語』(草思社・毎日出版文化賞特別賞受賞)で日本語ブームの火付け役に。著書に、『身体感覚を取り戻す』(NHKブックス・新潮学芸賞受賞)、『コミュニケーション力』(岩波新書)など多数。

 
私が教鞭をとる明治大学には、「前へ」という標語がある。ラグビー部の名監督・北島忠治さんの教えが、いつの間にか全学に波及したのである。その浸透ぶりは凄まじく、研究棟の男性用トイレにすら「前へ」というステッカーが貼られているほどだ。ふつうなら「もう一歩前へお進みください」などと書かれているところだが、明治の関係者なら、この一言で足りるのである。

 もともと北島さんはラグビー部ではなく、相撲部の出身だった。だから「前へ」なのだが、その一直線な指導のおかげで明治は大学ラグビー界の雄となり、早稲田・慶應などのライバル校と幾度となく名勝負を繰り広げてきた。近年はやや低迷しているが、いつか復活してくれることを期待したい。

 それはともかく、「前へ」とは実にいい言葉だ。迷っているぐらいなら一歩前に出ろ、何ごとも勇気を持ってチャレンジしろ、といった意味に解釈できる。在校生のみならずOBにとっても、人生の節々で心の支えになってくれるに違いない。これが明治大学のミーム(文化的遺伝子)というものである。
 
より深いチームワークが求められる時代
 どんな組織であれ、そこには何らかの文化やカラー、コンセプトが存在する。あるいは暗黙知や経験知、身体知を共有しているとも言い換えられる。これらが、組織としての力の源泉になるはずだ。
 ただし、これらは自然に生まれるものでも、勝手に継承されるものでもない。必要な要素は二つある。一つは「前へ」のような明快な言葉の力、もう一つはそれを伝える人、体現する人の存在である。つまりは、その組織を束ねるリーダーの身体性が問われるわけだ。
 たとえば「あの人がいると場が盛り上がる」とか、「あの人ならきっとこう言うに違いない」と思わせるリーダーがいれば、その組織は強い。後からそこに加わった人も、その場の空気を吸収していくだろう。つまり教育効果もあるわけだ。

 しかし「何を考えているのか分からない」「せっかく報告してもノーレスポンスだから止めておこう」と思わせるリーダーだったとしたら、組織としてはバラバラになる。文化の継承や社員教育という意味では、まったく逆効果だ。
 
これは性格的に明るい・暗いとか、ソリが合う・合わないという問題ではなく、リーダーとメンバーの身体がどこまで近づき、触れ合っているかという問題である。特に昨今は、会社組織がフラット化し、人の出入りが激しく、上司・部下の関係も崩れつつある。ひと昔前に比べ、文化は継承されにくくなっているのかもしれない。

 しかしどんな時代であれ、仕事は人と人との関係によって成り立つ。しかも大量生産・大量流通の時代より、もっと高度で洗練された結果が求められるという意味では、さらに深いコミュニケーションやチームワークが求められるともいえる。それを生む組織の文化の重要性は、以前にも増して高まっているはずだ。
 
「祭り」の高揚感を仕事に生かせ
 とはいうものの、日本人は場に打ち解けるのが苦手、というイメージがある。腹を割って話すより、腹の探り合いのほうが多い、という人もいるだろう。少なくとも欧米人のように、初対面でハグしたり、見ず知らずの人に臆せず話しかけたり、「Oh, Yeah!」とオーバーなリアクションをとったりすることはできない。

 しかし、日本人には日本人の身体性がある。それを発揮することは、むしろ得意なのではないかと思っている。裸でぶつかり合う相撲、あるいは裸で神輿を担ぐ祭りなどはその典型だ。

 特に後者の場合、その一員として参加することに、合理的な意味を見つけることは難しい。実際、いくら重たい思いをして担いだところで、何が生み出されるわけでもない。また本来なら宗教的な意味はあるはずだが、敬虔な信仰心から担ぐ人は少ないだろう。

 ではなぜ担ぐのか。それはひとえに楽しいからだ。仲間うちでひしめき合い、掛け声をかけ合いながら街中を練り歩く。その高揚感と一体感自体が快感なのである。だから重労働であるはずなのに、身体はさほど疲れない。一度でも担いだ経験のある人なら、その記憶を呼び覚ますことは容易だろう。

 極論に思われるかもしれないが、私はビジネスというものも、実は祭りと同じではないかと考えている。もちろん利益を出すことは重要だ。休日に消費するためだけに平日に働く、という人もいるかもしれない。しかし休暇時間より労働時間のほうが圧倒的に多い現代人にとって、これではバランスがとれない。日々の仕事で祭りのように高揚し、発散することができれば、それに越したことはないだろう。神輿を担ぐ感覚が身体に刻み込んでいる日本人なら、それは十分に可能である。
 
会社で「ホウ」と叫べるか
宮沢賢治の有名な詩に、「高原」がある
 海だべがど、おら、おもたれば やっぱり光る山だたぢやい ホウ 髪毛、風吹けば、鹿踊りだたぢやい
 この詩のポイントは「ホウ」だ。風が身体を吹き抜け、鹿踊りが始まる高揚感を表している。さて日常の仕事の中で、「ホウ」と叫びたくなるような瞬間がどれだけあるだろうか。あるいは職場の中に、違和感なく叫べる雰囲気があるだろうか。その多寡が、ビジネスの成否をも左右するといっても過言ではない。

 反面教師として挙げるなら、私は、PowerPointのようなプレゼンソフトに全面的に頼ったプレゼンや会議が嫌いだ。企業からの依頼でしばしば参加させていただく機会があるが、多くの場合、話し手も聞き手も弛緩しきってしまうからだ。 

参加者全員がいろいろ書き込みながら、議論を繰り広げる

 その理由ははっきりしている。まず場を暗くするから、聞き手は心おきなく眠ることができる。話し手も「人に見られている」という意識を持続できない。それに、あらかじめ用意した画像にしたがって一方的に話すだけだから、さして緊張することもない。それでいてなんとなく仕事をした気分になれるから、余計にタチが悪い。

 つまり一言にいえば、身体性に欠けるのだ。せっかく複数の人が貴重な時間を割いて集まっているにもかかわらず、「祭り」からはもっとも遠い時空間が出現するわけである。これでは、新しいものが生まれる素地もない。

 参加者全員がペンを持ち、ホワイトボードや紙にいろいろ書き込みながら、丁々発止の議論を繰り広げる。やや空気が淀んできたら、立ち上がり、ストレッチし、ジャンプし、四股を踏んでみる。そしていい意見が出たら、他の参加者から思わず「ホウ」と声が上がる。そこまでやって初めて、新しいアイデアが生まれるのである。そういうミームを、ぜひ組織の中で育てていただきたい。